yuichibow’s blog

ジェット旅客機の操縦席から外を眺めるお仕事をする人の日記

裕坊パイロット日記 6/26

皆さんこんにちは、航空会社フラリーマン裕坊です。

この日曜日に4日間のフライトへと出発して、中身の濃いスケジュールをこなしていた裕坊。到着地での宿泊滞在の時間も短く、なかなか思うようにブログも更新できず…

 

この週の4日間のフライトは、かつて50人乗りのCRJの初期型に乗っていた頃によく訪れていた都市を、何年かぶりに訪れています。こちらはアイオワ州シーダーラピッズ。

 

ターミナルビルは改装工事の真っ最中。 天井も既にかなり高くなって、かつての面影が完全に消え去ってしまうほどの全面改装工事。

 

一昨日はイリノイ州のブルーミントンにもやってきました。

 

その一昨晩月曜日に泊まっていたのは、豪邸の中を思わせるようなホテル。

 

エレベーターの周りも、豪邸を思わせるような作りになっていて……

 

部屋の中は、なんとシャンデリア付き……

 

翌朝に撮った、外観。お城のようにも見える……

 

しかし今週のビッグニュースといえば、なんといっても三菱重工による、ボンバルディエのリージョナルジェット機部門の買収交渉の成立。

 

ボンバルディエといえば、元々冬の厳しいカナダ・ケベック州で著しい積雪による交通途絶を解決するために生まれた企業だったそうです。

 

1936年にこの会社は、ジョセフ・ボンバルディエによって立ち上げられ、最初に製造されたのは、こんな形のスノーモービル

自動車の前輪をソリに、駆動輪をクローラーと呼ばれる戦車のようなベルト式のローラーを備えた冬用の自動車。ただスノーチェーンと同じく、雪上車に適したローラーの素材を見つけるまでに様々な紆余曲折を経て、1936年の『B6』型スノーモービルの生産が開始されるようになりました。

 

会社の創始者であるジョセフ・ボンバルディエの死後、スノーモービル以外に事業を広げることに消極的だったジョセフに変わって、1967年に会社は、ボンバルディエ有限会社(Bombarider・Limited)と改名され、宇宙航空部門と鉄道車両部門に進出。1969年には、モントリオールトロント証券取引所にも上場されて、株式も公開されるようになりました。

 

鉄道部門に本格進出するようになったのは、1970年以降。

アメリカやヨーロッパにおける路面電車や、「ライトレール」と呼ばれる都心部交通機関の車両製造に、大きく関与しているそうです。

 

最近では地下鉄車両部門にも、かなり進出していて、こちらトロントの地下鉄車両であったり、

 

ニューヨークではお馴染みのこの車両も、実はボンバルディエ製。

航空宇宙部門にボンバルディエ社が本格参入を果たしたのは、1990年代に入ってから。

 

その主力は企業の重役クラスの運送用のコーポレートジェット機と呼ばれる、プライベートジェット機が中心。航空部門の規模も小さなものだったのですが…… その主力機の一つでもある、チャレンジャー。

 

そのチャレンジャーという機体の全長をやや引き伸ばして、50席を詰め込んだのが、初期型リージョナルジェット機であるCRJ。

日本でもJ−Airなどが数機を運航していました。

 

裕坊も現在の会社に入社後、このような塗装の機体を、ほぼ8年に渡って運航。

 

ただ天井が低く、荷物棚の収納も狭くて、普通のサイズの旅客機であれば入るはずの荷物すら入らない初期型CRJは不人気機の代表となってしまい………

 

大幅な改良が加えられて誕生したのが、CRJ−700型機、900型機。

 

床が下げられて、結果的に天井が高くなり、以前よりかなりゆったりとした客室になりました。

 

ただ航空機製造部門は、経費がかかり利益も出にくかったようで、

リージョナルジェット機製造部門は、赤字が続いていたらしいです。

 

しばらく続いていた三菱重工による、ボンバルディエのリージョナルジェット機部門の買収交渉が遂に昨日火曜日にまとまったようで…

昨日火曜日に正式に発表。

 

裕坊が今現在乗っている、こちらCRJ−900型機も、今後は「日本の航空機製造メーカー」によって製造されることに。

 

寄しくも、三菱製の新型リージョナルジェット機(スペースジェット)の開発最終段階に重なることになりました。

本格的な航空機製造、さらには整備点検においてはノウハウの蓄積があるボンバルディエ社のサポートが受けられるのは、今後の日本の製造業による航空機製造業の参入の大きな足がかりになるはず……

 

というより、このチャンスを生かしてほしい……

 

かつて日本の航空機メーカーが製造していたプロペラ機、YS−11は、販売交渉のノウハウの欠如が、結果的にこの旅客機を短命に終わらせる結果となりました。

この失敗を教訓に、三菱重工には日本の航空機製造メーカーとしての土台をしっかりと固めて、今後の日本の基幹産業の一つとして、しっかりと育て上げていただきたいです、

 

 

裕坊、忙しいスケジュールをこなすこと4日目。あと2本の担当便をこなして、デトロイトへと帰宅です。