yuichibow’s blog

ジェット旅客機の操縦席から外を眺めるお仕事をする人の日記

裕坊パイロット日記 6/1

皆さんこんにちは、サラリーマン風パイロット、裕坊です。

昨日金曜日は、3本の担当便をこなして5日間のフライトを終えて、帰宅していた裕坊。先週はお休みの日が雨で、庭の手入れが全く出来ず、

 

芝生はもう伸び放題…………

 

今日土曜日は積乱雲がやってきて、大雨になる予報でしたので……

とても今日土曜日に芝刈りは予定できそうもなかったので(実際に、かなり大雨が降りました)……

 

昨日の朝は3時起きで、本当は家の中でゆっくりしたかったのですが……

帰宅後も横になることなく、頑張りました……

 

裏庭だけで、3袋がほぼいっぱい……

 

刈って行くたびに、境界線がハッキリと分かります。

 

やっと終わった……………

普段は40分もあれば終わるところ、1時間半、たっぷりとかかりました………

 

今日は束の間の休日の土曜日でしたが、息子くんは来週開催される音楽会に向けて、担当の打楽器の練習にお出かけ……もうほぼ夜中近くになるのですが、まだ練習が続いている模様………

 

小学2年の時から塾通いを始めていた裕坊…習い事といえば、水泳やサッカー、習字くらい……ピアノなんて女の子だけがやるものという概念があった時代でもあり、ピアノはおろか鍵盤に触ったことすらありませんでした……時代は変わっとるんやね………

 

 

時代が変わったといえば、日本もやっと本格的に、航空機製造に参入できるところまで漕ぎ着けることができたようです。最近になって目を引いたのが、三菱製のリージョナルジェット機の話題。

当初のネーミング、MRJMitsubishi Regional Jet)からスペースジェットと名を変えて、本格的に航空機製造業へと参入できることになりそうです。ネーミングの変更については、どうやら不祥事が続いてイメージが悪くなっている三菱の名前を前面に押し出したくない、という意向もあるようですね。

 

日本は先の大戦での敗戦後、GHQ(General Headquarters:連合国軍総司令部)によって10年間もの間、航空機の製造はおろか、研究や設計、或いは日本企業による運航までもが禁じられ、戦前の航空機に関する資料は全て破棄。GHQの占領期間中には各航空会社、航空機製造メーカーは完全に解体され、他業種への転換を余儀なくされました。失職した技術者たちも、自動車や鉄道へと流出せざるを得なかったのだそうです。

実際には、朝鮮戦争勃発時に、米軍機の修理や整備の受注、自衛隊向けの機体のライセンス生産を至るまでにはなっていたらしいですが、本格的に航空機産業が立ち上がったのは、日本企業による航空機の生産、運航が解除になった1957年(昭和32年)。終戦から12年後のことでした。

 

その時立ち上げられたのが、民間一体になって立ち上げられたプロジェクトでもあった日本航空機製造。長らく日本の空の近距離路線を多く飛んだYS−11というプロペラ機が製造されたのがこの時代。

技術面では当時としてはまずまず高度なものを誇ったにもかかわらず、確立した販売網を持っていなかったのは、YS−11という日本初の旅客機にとっては、致命傷となりました。

 

完成直後は海外からの多くの受注を受けたものの、杜撰な契約から高額な支払いを要求される場面に数多く直面し、赤字は拡大する一方……当時の通産省(現在の経済産業省)だけによる主導によって行われた民間航空機生産の振興事業。ノウハウを蓄積するにはあまりにもコストが嵩み、182機を以って生産は終了。日本航空機製造という会社も、1982年(昭和57年)に解散。

 

 

それからしばらくは、日本の企業が自ら旅客機の開発に携わることはありませんでした………

 

 

そこに日本の航空機製造に、再びチャンスを伺う機会が訪れます。それは1990年代後半になって起こった、リージョナルジェット革命(RJ revolution)。それまで近距離で、需要が少ない路線で飛んでいた旅客機といえば、アメリカでもターボプロップというプロペラ機が中心でした。

 

カナダのボンバルディエという航空機製造メーカーが、それまでチャーター用、或いは企業のお抱えの航空機として使用されていたチャレンジャーという小型ジェット機を改造。

この機体の全長を少し伸ばし、座席を50席詰め込んで、新しく旅客機を製造します。

 

そのローンチカスタマーになったのは、今はなきコムエアー(2009年9月29日に、親会社であるデルタ航空によって閉鎖されました)。1993年にCRJ-100型機(Canadair Regional Jet)が導入されます。

プロペラ機に比べて騒音も振動も少ないジェット機。小型でありながらジェットエンジンを積み、ジェット機の方が安全という一般の方のイメージにも合致することになって、たちまちのうちに大ヒット。一時は、アメリカ国内の半数以上の離着陸数の半数を占めるまでに、就航便数も大きく伸びることになります。

 

裕坊は、その初期型CRJから派生して若干改良が加えられたCRJ-900型機に、現在乗務。(76人乗り)

 

客室の騒音が少なく、速達製においてはプロペラ機の比ではないリージョナルジェット機。アメリカに限らず世界各国でも導入が進むのを経済産業省が着目して、日本の重工業3社に新たな航空機の開発を提案します。それにいち早く回答したのが三菱重工業。この開発を正式に前進させるために、三菱は『三菱航空機』を立ち上げ、航空機製造部門を子会社化。2008年に正式に事業がスタートします。

 

幸いだったのは、日本航空機製造が1982年に解散になったあとの、親会社なきYS−11の整備点検を、三菱重工業が一手に引き受けていたこと。

 

残念だったのは、ジェット機の製造や開発に関するノウハウがなかったこと。これはかなりの足かせになりました。ただでさえ時間と費用が膨大にかかる新造機の開発。2013年に予定されていた初号機納入は大幅に遅れることになり、早くても初号機の納入は2020年半ば。その遅れを急いで取り戻すかのように、日本でもアメリカ国内においても、形式証明取得のための試験飛行が、やっとのことで始まりました。

 

既に旅客機部門では、4発機を所有する航空会社がなくなった、アメリカの航空業界。

国際線用の大型機材でも、B777A350など、エンジン効率が格段によくなった双発機だけになり、B747が主力として使われた時代と比較すると、機材は国際線といえどもやや小型化が進んでいます。

 

国内線の場合、路線によってかなり需要のバラツキはありますから、各航空会社が求めるのは200席クラスであったり、100席クラスであったり……ただその中で、今注目度が高いのが100席クラスの航空機。

 

デルタ航空でもこの市場には、以前から注目していたようで、

上の写真にあるエアトラン(デルタ航空と同じくアトランタに本社があった格安航空会社。サウスウエスト航空が後に買収)がかつて使用していた110人乗りのボーイング717型機を、ほぼ全機買取。

 

それを全機デルタ航空のカラーに再塗装。そのため、今でもデルタ航空が使用するボーイング717型機には、ATの機番が入っています。

但しこのボーイング717型機は、航続距離が短いのが難点だったようで、ニューヨークからテキサスのようなアメリカ大陸の半分を横断するだけの航続距離を持っていませんでした。

 

そこで購入することになったのが、現在100席前後の旅客機市場の主力の一つにもなっている、カナダ・ボンバルディエが開発設計したエアバス220型機。

東海岸から西海岸までの、大陸横断飛行能力も持ち合わせる最新鋭機。

 

ちなみに、このエアバス220型機。本来モントリオールにあるボンバルディエ工場で生産予定だったのが、トランプ政権がかけた220%にもなる関税を避けるために、ボンバルディエ社の働きかけで、アラバマ州モービルにあるエアバス工場で製造されることになり、その後エアバス220型機と呼ばれるようになりました。

 

100席の旅客機の市場において、もう一つの主力になるのが、ブラジルの航空機メーカー、エムブラエルによって開発されたE190。

但しこちらもボンバルディエと似たような状況。どうやらボーイングの傘下の元に、製造されることになるようです……

 

ですので、MRJ、新たに命名された「スペースジェット」は、これらの機体に対抗していかなくてはなりませんが……

 

皆さんもよくご存知のように、既に全日空からの受注は入っていますし、

他にもアメリカからも受注は入っています。

 

そのうちの一社は、リージョナル航空会社のトランツステイト航空(本社、ミズーリ州セントルイス

こちらからは50機を受注。

 

他にもスカイウェスト航空(本社、ユタ州ソルトレイクシティー)からも、

100機を受注済み。

 

環境にやさしく、大阪伊丹空港にも乗り入れ可能な低騒音を実現。炭素複合材を利用して、大幅な軽量化も実現。また機内天井が200センチあり、アメリカ人のような背の高い人でも、体を屈めることなく歩くことができる客席などなど。ウリはたくさんあるようです。

 

アメリカの航空業界には、パイロット組合の契約により、リージョナルジェット機の重量や客席の座席数などに厳しい制限があり、仮に航空局からの形式証明を取得することができたとしても、アメリカ国内のリージョナルジェット機として運航するには、その辺りの課題もクリアする必要がありますが(そのため、70席機の形式取得も正式に進めることが決まったそうです)、アメリカの航空会社の塗装を纏ったこの美しい機体が、アメリカの空でたくさん飛んでいるのを見ることができるのを、裕坊は心から望んでいます。