yuichibow’s blog

ジェット旅客機の操縦席から外を眺めるお仕事をする人の日記

裕坊パイロット日記 3/27

皆さんこんにちは、航空会社フラリーマン、裕坊です。

上の写真は、久々に朝のスタバでの風景。既に春休みに入っている愛妻ちゃんと、久しぶりに2人きりの優雅なデートを………………………

 

 

という訳では必ずしもなく……………………

 

 

1日ファイナンシャルプロに会ったり、銀行を数軒ハシゴしたり、修理に出していた靴を取りに行ったり、その間に息子くんの送り迎えに、そして最後の締めは修学旅行の説明会…………………………

 

 

ちなみに我が息子くん、こちらでの中学校生活の締めとなる修学旅行、東海岸へと行くそうなのですが、なんとデトロイトからは、バス移動だそうです…………………

 

 

 

しかも出発日の朝の集合、4時50分…………………

 

 

 

どっかの父ちゃんと似たようなことやっとるな〜………………

 

その東海岸への移動のバスの中は、恐らくこうなっていることでしょう…………


 

親御さんも数名、ボランティアで旅行へ同行するらしいのですが、父親が行ってたとしたら、こんな感じになっとるんやろな…………

アメリカの歴史の宝庫である東海岸への旅、今日は概略の日程を校長が説明会で披露。日本のパッケージツアーも顔負けの弾丸ツアー………

朝、自分で起きられない息子くんが、どう対処するのか乞うご期待……

 

 

ところで、今日3月27日といえば、航空業界にとっては忘れることができない1日です。

今から42年前の1977年3月27日、カナリア諸島にあるテネリフェ島にあるテネリフェ空港で、2機のジャンボジェット機ボーイング747型機)同士が衝突して、乗客乗員合わせて583名の方が亡くなったという、航空史上最大の大惨事が起こった日。

 

先日ご紹介した『Threat and Error Management』『危険因子とそれに伴うミスの危機管理と危機回避』に照らし合わせてみると、あまりにも『危険因子』が数多く積み重なった日でもありました。

 

普段は小型プロペラ機が中心に発着するそれはそれはのどかな、現テネリフェ・ノルテ空港。

その日は普段は、当時のテネリフェ空港では見ることがない大型機が、こぞってその空港にひしめいていたそうです。

 

そのうちの一機は、KLMオランダ航空のボーイング747型機。

 

そしてもう一機のボーイング747型機である、今はなきパンアメリカン航空

KLMオランダ航空は事故の4時間前にアムステルダムを出発、そしてパンアメリカン航空のジャンボジェット機はニューヨーク・ケネディ空港を出発して、どちらも元々はカナリア諸島にある大西洋のリゾート地、グラン・カナリア島を目指していました。

ところが目的地に近づく途中になって、爆弾テロが発生。それに続いて、二次テロを予告する、カナリア島分離独立派組織を騙る電話も入っていたために、空港は臨時閉鎖されることに……

 

行き場を失った旅客機は、ほぼ全機が代替空港へのダイバートを余儀なくされ、空港敷地面積が狭く、滑走路も1本しかないテネリフェ空港へと集まることになります。

 

このテネリフェ空港は、普段はプロペラ機の発着が中心で、往来もまばらな空港。滑走路とそれに並行する誘導路が一本だけ……

大型国際線機材による頻繁な往来は想定していませんでしたから、余儀なくダイバートしてきた大型機で、誘導路、駐機場は完全に塞がった状態………

 

離陸への準備をするには、滑走路を使って航空機を動かす以外には、方法がありませんでした。

電話による2次テロの予告は虚偽だったことが判明し、グラン・カナリア空港も再開が決まって、給油を終えた飛行機が離陸へと向かいます。

 

並行誘導路が塞がっていたために、離陸の準備が整ったKLM機、そしてそれに続いてパンナム機が滑走路を使って、離陸滑走を始める位置へと移動を始めます。

 

その間に天候は下り坂となり、テネリフェ空港には霧が覆い始めます。KLM機が離陸する頃には、霧も濃くなって、管制官は管制塔から滑走路の状況を目視できない状況に陥っていました。

離陸の準備が既に整ったKLM機を離陸させるためには、後ろに続いていたパンナム機を、まず誘導路へと移動させる必要があります。

しかし管制官が指示する第3出口は超大型のB747型機には狭すぎ、パンナム機の機長は第4出口から誘導路へ入ることを決断、そのまま滑走路を東へ進み、第4出口から誘導路へ入った際に、滑走路を完全に空けたことを通達する旨を、管制塔へと伝えていました。

その間にKLM機は、「飛行計画への許可」を受け取ります。これは「離陸許可」とは別に、旅客機など、「計器飛行による飛行計画への許可」であり、まだこの時点でKLM機には、「離陸許可」は出されていませんでした。

 

霧が深い状態で、KLM機からもパンナム機からもお互いの位置は確認できず……………………

 

「飛行計画への許可」を「離陸許可」と仮定したKLM機の機長は、航空機関士パンナム機がまだ滑走路上にいる懸念を機長に示していたにもかかわらず、スラストレバーを推し進め、離陸滑走を始めてしまいます………

 

 

その結果は………………………

 


 

583名の方が犠牲となる、航空史上最大の大惨事でした。

 

機長の判断一つが、人の運命を変えてしまうことになりかねないことを示した、このテネリフェ空港の大惨事。数々の大きな教訓を残すことになりました。

 

この一つ一つの教訓を胸に、明日から5日間のフライトへと出発します。