yuichibow’s blog

ジェット旅客機の操縦席から外を眺めるお仕事をする人の日記

裕坊パイロット日記 3/20

皆さんこんにちは、航空会社フラリーマンです。

昨夜はニューヨークからここテネシー州のメンフィスまでやってきました。副操縦士のアンドリューくん、メンフィスの生まれ育ち。今でもここに住んでいて、昨夜は自ら操縦桿を握ります。スラストレバーはほとんど1番前の位置。スピード計は「これ以上スピード出したら飛行機壊れても知らねえよ」のリミッターの位置を指しています。そのすぐ上には赤い棒。これ以上速い速度は危険の表示。アンドリューくん、そこには触れることなく、見事に最速の速度をメンフィスまで保ち切って見せました。家に帰りたい症候群のパワーは絶大です!ゲートに到着するなり、荷物をまとめて一目散に帰って行きました。

ここメンフィスの大きなビジネスといえば何と言ってもフェデックス。飛行機を保有する貨物専用の会社としては世界最大。昼間はほとんど動きがなく人を見かけません。それが夜になると次々に従業員、パイロットたちがどこからともなく現れて一気に賑わいを見せ始めます。その様子はまるでお祭り。

フェデックスが大きな駐機場を持ち、夜になると活気付くメンフィス空港、その一方で旅客ターミナルは今は昼夜関係なく静寂を一日中保ちます。人の姿はいつ来てもまばら。以前デルタ航空と合併する前のノースウエスト航空ハブ空港の一つでもあったメンフィス空港。南部の都市からの乗り換えの中継点としての役割を果たしたメンフィス空港は、10年前はとても活気付いていました。

空港の近くに本社があったピナクル航空に裕坊が雇われたのが2006年の6月。本社があり、ノースウエスト航空ハブ空港だったこともあり、行き来の激しい空港でした。裕坊が今担当している76人乗りのリージョナルジェット機がまだ存在すらしなかったときで、ファーストクラスもない50人乗りのノースウエストとほとんど同じ塗装を施された小さなジェット機が行ったり来たり。小さな南部の町からお客さんを運んでは、メンフィス空港のターミナルで次の目的地へと送ります。

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行き来が激しい空港内、到着便が押し寄せる時間帯になると、ターミナルの中も人で賑わいます。Bコンコースの中央に行くとエルビス・プレスリーのディスプレーが飾られ、ブルースがお店の中にかかります。フードコートにポークバーベキューやハンバーガーを買いに行くと、いつも人の列が長く10分待ち。コンコース内にはムービングウォークがない空港なので、飛行機を乗り換えなければならないときは、夕食を買うのも一苦労。ハンバーガーの入った紙袋を抱えて、よく次のゲートへと走りました。

2008年、年が明けて間もなく発表されたデルタ航空ノースウエスト航空の合併は、メンフィス空港の運命をも大きく変えることになりました。2年をかけて行われた2社の合併劇、ノースウエストの名前やロゴは全て消え去り、距離的にデルタ航空の本社アトランタから近かったメンフィスはやがて整理縮小の対象の一番手になることに。合併完了の2010年から1年と経たずして、デルタ航空のフライトクルーの所属先が閉鎖されます。

その間ノースウエスト航空と同じく、リージョナル航空会社同士で合併買収を繰り返していた我がピナクル航空、2012年に破産法下に置かれ、2013年にデルタ航空の完全子会社になり、エンデバー航空と名前を変えて再出発を果たします。本社はかつてのメンフィスからミネアポリスへと移され、やがてはフライトクルーの所属先の一つでもあったメンフィスは閉鎖。当時メンフィスに所属していたパイロットたちは、ニューヨーク、ミネアポリスデトロイトへと散らばって行きました。かつては国際線の行き来すらあったメンフィス空港、今はいつ来てもひっそり。フードコートは閉鎖され、かつての面影は消え去りました。

そしてピナクル航空時代に裕坊がよく乗っていた50人乗りの小さなジェット機、最近では需要が減って来た上に機内が狭くて不人気なことも手伝って、その多くは役割を終えてアリゾナ州の砂漠に最後の住居を構えることになりました。140機を超えたピナクル航空の所有機のうち、残っているのは30機以下。そのほとんどが砂漠で砂嵐にまみれながら次のオーナーが現れるのを今日も待っています。

そのメンフィスをお昼前に出発。今日は自ら操縦桿を握ることなく、デッドヘッドのクルーとして愛妻ちゃんと息子くんの待つ、デトロイトへと向かいます。

 

裕坊